槍鯛

やりたいことしかやりません

ドラゴンボールが読みたい

ドラゴンボールが読みたい。
暗黒の時代、誰彼からも存在を無視されていた。傲慢な語り口とは裏腹の無能っぷりに誰しもから得たいの知れない畏怖を抱かれていた。
演劇部などつまらなかった、私が主役ではないからすっぱり後味悪く辞めてやった。辞める前にたくさん人間関係を荒らしてやった。お前のきたねぇ根性が気に食わねぇ、悪口言う奴が部長なんてやるんじゃねぇと悪口を言って辞めてやった。

もう絵しか描けなかった。昔はそりゃー優等な生でしたので勉強はとてもよくできて字も作文も上手で新聞になんて載ったこともある賞状少女でしたのでやることがたくさんあったけどなにせ高校にも行くとそんなことは求められてないので勉強しかなかったけれど、一番になれないのでシャクだから辞めてやった。勉強に辞めるとかないとか言う奴はいつまでも自分の裁量で辞め時を決められねぇ小学生みたいな人生を送りやがれ。

一番になれるのは絵しかなかった。絵は求められる、あれ描いてこれ描いてと無数のリクエストがあり誉められるというゴールがある。一秒でも長く生きている意味を描いた。一番かどうかは私が決められたから一番なのだ。主役や模試の結果みたいに明確な優越がわからない世界で生きるのはナルキッソスの娘として名を馳せる私には全然つらくなかった。

とりやまあきらはすごいらしい。なにやら絵のデフォルメのセンスが抜群で戦闘シーンがめちゃくちゃ見やすくて何よりポップでキュートらしい。とりやまあきらはすごい。とりやまあきらはすごい。英語の時間も歴史の時間もずっとそれだけしか考えていなかった。勉強を辞めた人間にとって先生などとりやまあきらただひとりしかいなかった。とりやまあきら。とりやまあきら。

ノートに悟空とトランクスくんを描きまくった。ドラゴンボールは読んだことがない。絵以外のストーリーなどにあまり興味がなかった。悟空とトランクスくんに飽きたらピッコロもベジータもブルマもクリリンヤムチャも描いた。上手になるためにノートに描いただけなのでちゃんと人に見せなければいけない。授業中は提出ノートに、掃除中はボードに、学級ノートにはコメント欄に、出会い系アプリでは知らない男に、私の描いた悟空やトランクスくんやヤムチャを見せられるだけ見せまくった。

道端で露出したら逮捕だ。露出有名でもなんでもない自分のモノを見せる傲慢さが公害認定されるからだ。傲慢な奴は暗黒時代の私のように社会的に無視されてしまう。私のやったことは露出狂となんら変わらないがしかし、めちゃくちゃに誉められた。いや、私の行為ではなくとりやまあきらが誉められたのだ。とりやまあきらを介して私は生きる意味を勘違いの中に見出だしていた。

今は社会的に無視されないようにちゃんと全部嘘をつけるようになった。傲慢さの欠片もない女の子の演技をしている。演劇部は辞めてやったのにこれは皮肉だ。もうとりやまあきらは必要なくなった。だから今は純粋な気持ちでドラゴンボールが読みたい。

あ、勉強は一度辞めたがまた始めた。当然のごとくことごとく落ち私大に進み親の脛を骨まで齧っている。ただこれも演技なので、私は本当は親思いの良い子である。

帰省????

老いてゆく者は置いてゆくモノだ。
つまらないから帰省などしなくていい。親などいつ死んでも構わない。
君を育てたのはただの自分勝手なのだ。産んで育ててそれのどこに感謝がある。いつの間にか居着いた野良のネコは人間に感謝する義理などないとばかりに不貞腐れ顔で人間のやった飯を食う。それでも可愛いのだ。なぜならという野暮な質問はいけない、なぜならそういうものだから。人間様はネコとは違うが何も違くはない。生きることも死ぬことも選べるしそれをいちいち議論する大人になどなりたくないのだ。命の大切さなど講釈垂れるあまりに残念な大人になどなりたくないのだ。
勝手に死ねばよい。勝手に生きればよい。

実家に帰れば切ない顔で健康状態など見られる。実の家は今の駅近ビルの四階、八畳の角部屋であるのに実家と書いてホントの家と読む。馬鹿野郎、ウソもホントもあるか。この世にホントはひとつしかいらない。私が見ている今がホントであとは見えないのだから存在しないのだ。哲学などには深入りしない、これが私の哲学だ。

大量の飯が出てくる。全然嬉しくない。私は普段チョコを少し食べればお腹いっぱいな気がしてくるが夜になって足りなくて麺をちょろっと茹でるくらいしか食えない。食えないものは食えないのに寿司や肉やお菓子がたくさん出てくる。食えという雰囲気でもう食えない。そんな感じで食う飯はとてもまずい。くそまずい。美味しく食えない私のせいではなく、完全に自分が作った飯が迎合されると考えた母親のエゴのせいである。

やることがない。元野良の猫はやはりバカなので私の顔を忘れ、私に抱かれても逃げる。そのあまりの可愛さにうっとりする。皮肉でない。

学校はどうなのなどと聞かれる。単位は落としたし彼氏はできた。友達は依然としてできない。ディープキスはしたけどセックスはしていない。そこまで話すのが非常識だと考える人間になにも話すことなどないのだ。全部嘘をつくと怒る。ちょっと嘘をつけと言う。私にはホントしかない。相容れない事実だけが残る。ストレスだけが溜まる。

土産など持たされる。重い荷物を電車を乗り継いで持ち帰りそれを開封する手間を考えただけで寒気がする。駅近ビルの四階八畳角部屋に帰ると疲れて動けない。謎の情を醸し出す女優(母親)の演技に反吐みたいな涙なんか出る。金は交通費で2000円飛び時間は4時間飛んだ。この2000円と四時間で観劇ができた。能動的に生きることができた。

つまらない絆は切るのではなく見ないふりをしろ。観るのはアングラ劇にしろ。アングラ劇はいいぞ。全く意味がわからない。意味がわからないことにお金と時間を使うのだ。涙は反吐味ではなくちゃんと透明な味がする。やりたいことがわからないのではなくやりたいことは今現在意味がわかるものの中には無いのだ。ホントのことをしていたらストレスは溜まらない。

帰省の中にホントはない。ただの惰性の泥濘としか表現ができない。家などただの箱であり、土地など偶然の産物であり、人間などエゴイズムそのものでしかない。歴史も伝統もエゴイズムの行為の結果に作品名をつけたら立派に聞こえただけのものだ。エゴイズムに屈するなど自身がエゴイズムのくせして矛盾している。もっとエゴイズムとしての自覚を持て。お前の名前はさぁ今日からエゴイズムだ。仮の名前や苗字など猫に食わせて帰れ。お前の家は駅近四階ビルの八畳の角部屋だ。家に帰れ。